鼠年

”僕にはできない。鼠に罪はない。僕らとおなじように、この世界で懸命に生きている。
たまたま僕らは狩る役、彼らは狩られる役を割りふられているだけだ。立場をいれかえてもおかしくない”

SFマガジン 2014年5月号/p.45 「鼠年」より抜粋


読んでいて胸が苦しくなる、初めてのSF作品だった。
自分とシンクロした。現実逃避でSF作品を手に取っているので、現実や自分とシンクロする作品はとても苦手なタイプだ。
それなのに、読み終えたらとても好きになっていた。なぜなのか。理由はまだわからない。
誰しもがこの作品に共感できるとは思わないけれども、皆どこかで体験するであろう通過儀礼的な虚無感が作品の中に充満している。

短篇作品で登場人物は少ないながらも、主人子、小豆、黒砲、小夏といった登場人物の描写が細かい。
現代中国の若者像といったところか。


何を差し置いても、大学生である主人公の憂き目が手に取るようにしてわかる。
自覚はあっても認めたくはない自堕落な学生生活に身に覚えのある私にとってみれば、主人公は私だった。
無駄な留年。両親のすねかじり。能力もスキルもない自分(主人公)の存在価値など無に近かった。


主人公は多くない選択肢の中から鼠(ネオラット)狩りを行う国軍に入隊を選んだ。
価値ある人生を求めたり、自分の存在意義を確かめるなどという大義はなく、
単純に名誉除隊後の就職の為。
兵士が出身地から遠い地方へ飛ばされる描写は人民解放軍のそれと近いそうだ。
そうした中国ならではの描写も面白い。


そんな彼はこれまでの学生生活について、早々に長官から一喝される。
その辛さと言ったら、ない。人間、自分が一番良くわかっていることを他人から指摘されるのが一番つらい。


そんな彼らが戦うネオラットは直立歩行の姿で描かれる。
まるで話さない人間の様。余り想像したくないなと思った。


時が過ぎると共に、テレビニュースでは虚偽の事実が流され、彼らは名誉除隊という希望を一層強く抱く。
しかしながら、結局何と戦い、何の為に戦っているのかわからないまま現実が過ぎていく。
その間に仲間であった小豆が死ぬ。そこに至るまでの描写もまた心が締め付けられた。


現代の若者描写とずっしりとくる虚無感に引きつけられた。


鼠年
スタンリー・チェン