アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

ここ最近で一番ページをめくる手が止まらなかった本。
圧倒的面白さ。


映画と小説とのシンクロ率は高くないけど、どうしてこうもサクサク読めたのか不思議。映画ではハテナの出現率が高かったけど、この作品を読んで???が!!!に変わった。それぐらい面白かったし、映画で謎だった部分が解けた。



電気羊。生きた山羊。
機械仕掛けのヒキガエル。8本足のクモ。
そしてアンドロイドと人間。


それぞれが完全な別物ではないという作者のメッセージ。
つまりどこか似通っていて、どちらでもあるしどちらでもない。




読了後、なぜか映画『MATRIX』を初めて観た時と同じような気持ちになった。それはたぶん、デッカードが途中自分自身に問う「オレはアンドロイドなのか、人間なのか」っていうあの気持ちと似たものだと思う。今いる私はもしかして・・・という変な気分。


アンドロイドが量産だとして、その型番が沢山あるとして、人間だって量産されてて、広義的にみて人間だってホモサピエンスっていう一つの型であるんじゃないかと、作者とはまた別の意味でアンドロイドも人間も変わりはないと思ってしまった。(型番とホモサピエンスという種自体がイコールで結ばれるわけではないと思うが)ま、作者はそういった物理的な部分よりも精神的な部分を強調したかったのだと思うけど。何事も最初にガイカンやガイケンを鑑みて書いてしまうのは私の癖だな、たぶん。外から見ただけじゃ何もつかめやしないのに。



有機的なロボットってどんなのだろう。細胞分裂が行われて、新陳代謝もそれなりに行われているのに感情移入の欠落・・・うーん。これってすごい面白い。惹かれるけど自分の知識の貯蓄がないのでそれ以上は何も考えられない。ちょっと悔しい。生きているのに死んでいるのとは違う、生きているのに・・・他者に同情できるかどうかでgoodかnot goodに分かれてしまう。

(他人に同情などしない・できない人間だっているのに。同情しているようで殆どの人間がだいたい其れを偽っている、もしくはフリをしている。本人が気がついてない場合もあるだろうし、気がついていても考えないほうがシアワセだったりする。しかしながら、人間が一番可愛いのは自分であって他の誰でもない。自分が幸せになるための一つの手段が同情である。とするならば、この本に出てくるアンドロイドたちはある対象への感情移入という行為が自分をシアワセにするための手段から排除されているということなのか。彼らは何でシアワセを噛み締め、救いを求めるんだろう!)・・・と、イジドア風に考えてみたり。いや、抽象的だからむしろ”彼”の考えで行けばアンドロイド風か笑 別に何か答えを出そうとしていたり、生真面目に語ろうとしているわけではないけど、こういう風に書き連ねるのは面白い、他者になったつもりで馬鹿げた考えを書く。


生きた動物がステータスの表れ、か。
どうでもいい話だけど、空飛ぶ車やテレポート、ホログラフィックなんかはなかなか現実味を帯びないけど、生きている動植物が珍しくなる時代は何故かすぐそこまでに来ているような気がする。動物園がそのうち立派な動物の種を保存・保全するための施設として研究所と提携してあーだーこーだするとか。現に今やってるんだろうけど。あ、もしかして動物園の表向きの存在理由はそこ?そういうことかw気付くの遅ww



SFは割と好きだったけど、この作品を読んで初めて「SFってイイ」と本気で思えたかもしれない。馬鹿げた思考に結び付けて考えて、近未来のこと考えたりしてワクワク出来るし。



灰の舞い散る第三次世界大戦後の地球。
次に読む予定の本もそんな感じの設定だ。
まるでパラレルワールド。楽しみ。



うん、楽しみが増えるのは、いいことだ。





アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
原題:Do Androids Dream of Electric sheep?
著者:フィリップ・K・ディック(訳:浅倉久志
出版社:早川書房