カレ・ブラン

余計なものをコソギ取った映画。



映画にはいつ、どこで、また国や企業などの説明はなく、何らかの組織に管理された厳しい世界だというだけが解る。

『カレ・ブラン』は遠い未来の話ではなく、近未来、もしくは現代と地続きの現実を舞台に、自分の思考、判断力なく何らかの組織に従属することだけで生き続けることの危険性を描く。

何かに頼り、言われるがままに生きていくことは楽ではあるが、同時に何が正しく、何が間違っているかという物事の心理を見極める判断力や思考を失いがちである。


我々は皆何らかの規律、ルールのもとに人生を歩んでいるが、どんな世界においても最終的には人間は孤独に生きていく力、物事を見極める判断力が求められる。

『カレ・ブラン』はどんな世界にでも起こりうるこのような状況を、非常に冷ややかに、思考が停止した人間たちに対する軽蔑のまなざしで描いた作品。

アンチ・システム映画、反権威主義・反体制映画である。

(カレ・ブラン パンフレット/プロダクションノートより抜粋)

1965/アルファビル
1971/THX1138
1971/時計じかけのオレンジ
1972/惑星ソラリス
1973/ソイレント・グリーン
ウルトラセブン 第43話

これらのエッセンスをギュギュっと凝縮してうまくまとめた感じ。
ジュレのようにぎゅっとね。



ディストピア映画を評されても、監督は「ラブ・ストーリー」の映画だという。観る人によっていかようにも解釈される抽象的な描き方が特徴的な映画ではあるが、一貫して伝えたいことが上記の抜粋分に纏められている。


この映画の特徴として、社会の不条理に気がついた者たちは自ら死を選ぶことで自由を得る。監督としても、この部分は「死を選ぶということは一種の自由の獲得でもある。それは暴力的で厳しく、難しいことだ。とても恐ろしい。でもこの映画の世界では奴らに『俺を観てくれ、俺は自由だ、俺は自分の最後を自分で選べる』ということを示す行為でもある」と言っている。

そういえばディストピア映画で「俺は自由だ」と言わんばかりの署名的行為はどの点で観られるだろう。


暗い映像、静止画のような静かな動き、飛び降りる人間、白クマの比喩。何がどう繋がっているのか、一見して深く理解することはできない。謎の公共放送、クロッケー、子どもの話。何かが不安定な人間関係。


不安定なものの上に成り立つ私たちの生活。ただ、愛する者の存在が自分の存在を確かにするんだ、というメッセージを感じた。


他人によってではなく、自分自身で自分の存在を感じる為に必要なことは自分(現実)から目をそむけないことだろう。


この映画の主人公が愛する人間によって、自分(現実)と向き合う瞬間がくるあたりは衝撃的だが映画を観ているうちは気がつきにくい。観終わった後、あれらの行動はすべてどういう意味だったんだろうと考えてみるといろいろなことに気がつき始める。


映画を観ながら作品を理解することが大切ではなくて、作品を通して物事を考えるきっかけを得ることがこの映画の楽しみなんだと思う。


カレ・ブラン
2011
ジャン=バティスト・レオネッティ